連作詩篇 : 幻影少女
#1
ヘイルヘイル
時にこれは日常
もう壊れたりしない
もう壊れたりしないというセリフ自体が壊れてる罠
静かな曲
静かなメロディーで英詩は何を言っているか分からない
だから勝手に想像する
あとで訳文を読んでビックリする
時に時間に
時間の感じ方
何処にもない時間
瞼がいつの間にか重く
重く
時に赤
時に
あぁ
食べて寝て起きて
嘘をついて
震えて
迷って
あぁ
眠い
冷えるヘイルヘイル
真珠のセッション
隠者のパーティー
彼方にいるあなた
何処にもない私
#2
とばないでヘイルヘイル。泣く事を忘れた私、あなた。真夜中の山頂でヘイルヘイルの目に涙がゆっくりと溜まっていく。
「此処が何処だか分からない、今が何時だかわからない、自分が誰だかわからない」
ヘイルヘイルは静かに唇を動かす。こういう時に私が何を言っても仕方がないと分かり切っているので、小刻みに震えるその手を注意深く握る。コチコチに強張ったその手は子供の頃に食べた水色のアイスキャンディーのように冷たい。なんとか解きほぐしていつものように温かく柔らかで少しだけ湿った繊細な指先の感触を取り戻そうとする。しかし山の中のピンと張りつめた冷気は二人の体の表面はおろか芯まで凍てつかせて、本来の体温は戻ってきそうにない。俯いていたヘイルヘイルが何かを思いついたように、二人で二つとも摺り合わせて四つだった手を唐突に引っ込めた。
「触らないで」
どうして。
「どうして、ヘイルヘイル」
「触られるのが嫌だから」
わかったよ。
「わかったよ、ヘイルヘイル」
「ちょっと向こうに行っていて」
なんでだろう。
「なんでだろう、ヘイルヘイル」
「いちいち呼ぶのはやめて。前に嫌だって言ったでしょう」
「確かに君は言った、ヘイルヘイルはいちいち呼ばれるのが嫌だと言った、でもその後に機嫌が直ってからすぐ、『あの時は嫌だったけど、本当はそういう風に話すのって、嫌いじゃないの』とも言った。だからこうしているんだよ、ヘイルヘイル」
黙らないで、分からないよヘイルヘイル。長い沈黙。ヘイルヘイルが暖をとろうとしてその白い陶器のような両手に息を吐きかける音しか聞こえない。音がそれ以外に何もない。ヘイルヘイルの発する僅かな音を心細く聴いていると、世界中にヘイルヘイル以外に生きているものはいないんじゃないかと思える。動物も植物も、人間も、自分自身も。此処に本当は自分はいなくて、ヘイルヘイルが一人でうずくまっているだけじゃないのだろうか。
どのくらいの時間が経ったのか分からない。時計もないし、空はのっぺりとした一色の雲に覆い尽くされ月も星も見えない。外因的に時の流れを計る事の出来る要素が何もない。ようやくヘイルヘイルが口を開いたのは、私が自分は本当に幽霊のような存在ではないかと疑いはじめた頃だった。
「とにかく“今”は嫌なの」
ヘイルヘイルは時刻以外の時間を表す言葉については特に強調して話す。
「呼ばれるのも、こんな風に喋るのも“今”は嫌なの。“さっき”までは良かったんだけど……駄目なの。日が昇るまで喋らないって約束してくれるんなら、手を触ってくれてても良いよ」
分からないよ、なんでそんな事を言うのか。でも今だけは少し嘘をついて分かっている振りをする。またヘイルヘイルについた嘘が少しだけ積もる。雪の滅多に降らない街に舞い降りる新雪のように。
「分かったよ、とりあえず黙るよ。二人でいるのに触れ合わないのは寂しいものだ。君がそうしたいと言うなら、そうするよヘイルへ……」
言いかけて頬に切り傷の出来てしまいそうな視線を一瞬だけ感じとったような気がして、慌てて自分のカサカサに渇いた唇に人差し指をあてる。さっき剥いてしまった甘皮の部分から滲んだ僅かな血液が指の第一関節と第二間接の間に付着する。それに気付いているのか気付いていないのか、ヘイルヘイルは私の手をとって、真上に突き立てられた指をゆっくりとその温かい口の中に含んだ。それに合わせるように、指の先から力が抜けていってしまう。細く青白い血管が透けて見える瞼が伏せられているのは何時からなのだろうか。
指の先に、ヘイルヘイルの湿ってそこだけ独立した生き物のような動きをした舌が絡み付く。そっと動かそうとするとヘイルヘイルは眉をしかめ私を口と紅い舌の粘膜から解放する。そのまま行き場をなくした手の平は、力強く絡めとられ指と指の間を挟むように手と手を無理矢理合わた状態で私のコートの広いポケットに押し込まれた。
夜明けまではおそらくまだまだ時間がある。二人して昼間にほとんど何もせず眠るように過ごしていたものだから、眠りに落ちていつの間にかこの時間が終わっていくという選択肢もないだろう。ヘイルヘイルもその事をきっと分かっている。怒ったような顔をして私と顔を合わせようとしない。ときどきその手がポケットの中でモゾモゾと動く。掴んだり、離したり、強く求めるように引っ掻いたり、優しい素振りで撫で回したり。
もう何も喋れない。喋る必要もない。ヘイルヘイルの徐々に暖まっていく繋がれた指の柔らかさと湿度だけが、私にとっての世界のすべてだ。少なくとも朝が来る前までの時の間は。
ままならないね、涙が零れ落ちるヘイルヘイル。ずっと繋がっていたいけど、その頬が渇く頃に永く続いた夜が明けてしまう。
#3
ヘイルへイル
いつまでも日常
いつまでも壊れてる
いつからか壊れてる
何処で壊れたの?
あまりにも自然に
暖かいね
雪を溶かして
体から抜けていく
高い高い空から思い切り叩き落す
あとには何も残らない
残る気配がない
加速するヘイルヘイル
伸び縮む今日明日
手を伸ばす細い腕
何時かいたあなた
もういない私
#4
急がないでヘイルヘイル。笑う事の出来ない私、あなた。いつかまた出会う事が出来るなら、その時は笑顔がいいね。
#5
ヘイルヘイル
濁った夢の中しかみない
両の目には何も見えていない
ガムみたいな整髪料の香り
橋から見える向こう側の明かり
終わらない営み
消えていく休日
オーバードライブ
何も話せない
感じるまま朽ちた
枯れた
また春が来る
行って返ってブランコの振れ幅
じきに止まる
止まって透き通る空に
唄う
メロディーを忘れた
響かない鼻唄
芯にしかない
ひび割れるヘイルヘイル
不吉な双子
繰り返すセンテンス
生き続けたあなた
彼岸で佇む私
#6
沈黙と加速。
雄弁と減速。
不可逆な流れ。
やっちまった事はどうしようもない。
出会いと別れ。
その後の事。
信頼。不誠実。純粋。後悔。忘却。暴力。傷跡。終焉。回復。禁忌。無知。儀式。聖域。性交。友情。過去。未来。残像。現在。汚濁。時間。想像。……思出。
かつてこの手にあった筈の、あの時あの場所で一瞬だけ感じ取った、幻想としての奇跡の記憶。
ヘイルヘイル。
明日なんて来ない方がいい。
透けていく言葉。
刺のような塊。
ただもう眠りたい。
退屈に飽き飽き。
焦燥に悶絶。
遥か彼方未来。
血の混じる痛み。
染み付いた体温。
何気ないやりとり。
寄りかかる術もない。
交わされる視線。
意味を持たない。
あった筈の想い。
なんで、
なんで、
何処で取り零したの。
崩れ落ちるヘイルヘイル。
永遠のデジャヴ。
不死者の戯れ言。
喋り続けるあなた。
口のきけない私。
#7
ヘイルヘイル
溶けていく希望と呼ばれた嘘
歪んで捉え切れない時間軸
変わる季節
虚実と誇張
作り出す正解とその破壊
足りない足りない足りない
腕に滲む血液
使えない刃物
真っ白な心
薄汚れた体温
走り出す事を忘れた身体
衰えた思い出
膨張する感受性
忘れないでヘイルヘイル
地続きのフェスティバル
忘我のカルナバル
振り切って暗い路地へ
何処を見ても誰もいない
優しさを持ち去ったあなた
一人取り残された私
#8
ヘイルヘイル。アイムノットオンリーワン。