わらって、ゆるして。

躁うつ病日記

短編小説 : 静かな森の中で

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大昔にバンドをやっていた頃を思い出すかのように毎週末には下北沢や高円寺辺りのライブハウスのあまり人が入っていないイベントをからかうようにいくつか通っていたらひょんな出会いがあった。

 

“ひょん”っていう言葉には散歩中の並木道を歩く休日の昼下がりの自分の前にバネで出来た小さい十センチメートルくらいのおもちゃの人形が突如出現したかのような僅かな意外性を持った軽快なニュアンスがあって小気味がいい。しかしたかだか十センチメートルの脆く錆びやすい人形に何が出来ると言うのだろう。

 

人がまばらな地下一階のライブハウスでは独特の寂寥感が凝縮され空気の粒となって煙草の紫煙と一緒に肺を満たしてくれる。

 

その日のライブの一発目のステージの上ではボサボサ頭の狂犬のような目付きをした男が叫ぶように歌っているがなんの迫力も産み出せていない。それを眺める観客の中にはある種の優しさに似た静かな諦めのようなものが漂っている。

 

本当に迫力を持って見るものを制圧したいのなら街なかのアーケードの中心で同じことをやればいいのに。実際にやれば周りの通行人は雲散霧消、絶叫する狂犬病の男の周りにはまるで宇宙の深遠のようなファンタスティックスペースが物理の法則を超えて倫理と道徳と法律との中で過剰な磁場を孕み、いずれ青い制服を着た屈強なお兄さん達が彼の前に立ちはだかるであろう。

 

そういった事態は誰でも避けたいので、一時的な狂犬病の男はライブハウスのステージ上で吠える。哲学的な言葉やまとまらない考えを無理矢理圧縮した抽象的な歌詞を叫ぶ。

 

退屈だ。他に似たよう種類を思いつけないような説明が難しい退屈さ。しかしその退屈さが心地良い。それを味わうために俺はつまらないライブハウスに通う。

 

考えてみて欲しい。二流三流のロックバンドが主催するイベント。音がでかく薄ら寒いだけのノイジーな音楽。下手に演奏が技巧的であったりするから質が悪い。

 

アンプからたまに聞き取れる何処かで聞いたような言葉達が断片的に溢れる。

 

言葉は悩んでいるようであったり、友達を大事に思ったり、生きることの素晴らしさや悲哀を説いたり、なんだかよく分からないがとにかく絶望していたりする。

 

あぁ、スメルズライカティーンスピリット。
ビバ! カート・コベイン。

 

一体全体、世界中の何人の人間があのヤク中の馬鹿げた妄言に人生を狂わされたのか。かく言う俺もその中の一人だからなんとも言えないのだけれど。

 

閑散とした場末のライブイベントにたった独りで入っていってビールを片手に管を巻く。だいたい十人も人が入っていないイベントを狙って馳せ参じるから、他の客は出演者の知人友人身内であることが明白だ。二、三人のグループがそれぞれ固まって談笑し、たまに独りでいる俺をチラリと見やる。俺の自意識が過剰なのではない、そういうイベントに独りで行ってみれば分かる。俺が視線を感じてジロリと睨み返すと大抵は怯んでその視線は仲間達の輪に戻って往く。

 

居たたまれない、堪らなく独りぼっちだ。この自虐感、はじめは他愛もない自分に対するジョークのつもりがいつの間にやら癖になってしまった。


ステージでは狂犬が宣う。幼稚園児が油粘土をこねくり回したような言葉で愛を熱唱し続けている。

 

生きることとは♪
愛するということとは♪
まるで♪
まるで♪

 

俺はそれを聴きながらステージから照らされるまばゆいばかりの光を浴びて自分の孤独をかったいかったいスルメイカのように噛み締める。かったるい。

 

……まるで馬鹿みたいだよね。

 

あぁ、ステージ上の君よ、君は愛を知る。俺は君の愛や人生訓なんてまるで知ったぁこっちゃねぇんだぜ。

 

俺はやるせない気持ちで左手に持った瓶のハイネケンをあおる。

 

狂犬のライブが終わってステージの照明が一時的に落ち、次のバンドのライブを待ち構えるようにPAが静かな音量でさっきまで演奏していたバンドの曲を流しはじめた。

 

ステージを降りた犬がフライヤを来客者に配っている。おそるおそると言った感じで独りでいる俺のところにもやって来てフライヤを差し出してきた。「よかったら一ヶ月後にまたここで演るんで来てください」と一言添えて。さっきまでの気の狂ったような様子は微塵も感じられず、ただオドオドとしている。冷たい雨に所在なく踞る子犬のような目をしている。雨の中で佇む子犬なんて見たことはないけれど。

 

「良いバンドですね、機会があったらまた見に来ます」とかなんとか適当なことを俺は言って肩からかけた紅いポシェットに手渡されたフライヤを丁寧に折り畳んで入れる。子犬は「ありがとうございます」と本当に嬉しそうに言ってから軽く頭を下げバンドメンバーと取り巻きが固まっているテーブルに帰っていった。自分の手渡したフライヤが駅のゴミ箱に速攻で放り込まれることも知らずに。

 

子犬が背を向けた瞬間に彼の汗だくのポロシャツの襟あたりから見える背中の首の付け根にRとOとCと描いてある小さい刺青が覗いた。あとのもう一文字があるかどうか分からないし見えなかったけれど、おそらくあるとすればKだろう。おそらくというか間違いなくKだろう。

 

まったく、微小な彫り物とはいえ親に有り難く頂戴した体になんてことをしやがるんだ。一歩間違えば堅気じゃいられねぇぞ。

 

雨の中の小さい子犬、君のつぶらな瞳の前にはきっとまだ輝かしい未来が待っているんだ。その幻想がいつか打ち破られることも知らずに。

 

でもそれはまだ知らなくてもいいよ。

 

「俺は君が羨ましい」

 

誰にも聞こえないボリュームを絞った声で俺は独り言を洩らす。

 

ひょん。

 

気が付くとただただステージから次手のバンドが叩き出した音の塊の奔流の前に圧倒され打ちのめされ立ち尽くしていた。千手観音のように腕が何本もあるようにしか聴こえない雷鳴のドラミング、単調で起伏がなく重苦しいだけなのに心臓をローラーで押しつぶされるような胸騒ぎを覚えるベースライン、目の前で空気が細くみじん切りにされていくのが鮮明に見える鋭過ぎるギターリフ。 

 

ニワトリが絞め殺される直前に吐き出す雄叫びのようなボーカルに柔らかい女声のコーラスが絡むと陶酔で小便をちびりそうだ。

 

いつの間にか右手に持った吸いかけの煙草を床に落としていた。

 

ギターボーカルとドラムの二人が男でベースとコーラスを担当しているのが女の、よくあるスリーピースロックバンド。

 

小綺麗な中にロック然とした崩しを入れた雰囲気の男二人のことはどうでもいい。そのプレイヤビリティーは賞賛に値するが。

 

問題はベースとコーラスをやっている女だ。

 

目の前のステージで世界がひっくり返りそうな暴動のライブを作り出している核が彼女であることは誰が見ても一目瞭然だった筈だ。

 

彼女はフードの周りにフカフカとしたフェイクファを付けた深紫のダウンのベストを着て、細く白い腕を曝け出していた。一体どうやってそんな細い腕から地球の底から響いてくる地鳴りのようなベースをうねり出させていると言うのか。古びたジーパンを太ももの付け根まで切ったホットパンツにピンクとホワイトのボーダーのニーソックスを履いたスラリとした華奢な脚。ほっそりとした足首にまとわりつくヒールの高いヒョウ柄のブーツ。あんなヒールのついたブーツでよくあれだけステージでベースを弾きながら暴れられるものだ。腰まで伸ばした漆黒のストレートの髪の毛、眼の半分辺りで前髪がパッツンと真一文字に切り揃えられている。リズムに合わせて首を上下左右に振りながらその髪の毛が揺れる揺れる揺れる。黒眼がちな大きい瞳がたまに片目だけでも全て曝け出されるとそれだけで見てはいけない呪いの宝石を見てしまったような恐怖を伴った罪悪感に捕われた。顔のパーツ一つ一つが整い過ぎるくらい見事に整って、危ういバランスを感じさせながら輪郭の中に配置されている。ぶっちゃけむっちゃくちゃ可愛い。可愛いと言うより、綺麗。綺麗と言うより、美しい。

 

ある曲の転調を挟む場所で彼女がマイクに向かって悩ましげに「ハぁー↑・アァアァあー↓」と溜息のようなコーラスを入れた。

 

俺は何年か前にプレイしたファンタジーRPGゲームに登場した、吐息一つで死者を蘇生させる女神がラスボスとの決戦の直前で召還される場面を思い出した。苦難と絶望に打ちひしがれた主人公パーティーが純粋な悪意に負けそうになるところで女神によって息を吹き返す感動的なシーンだ。

 

閑散としたライブハウスで吐き出されるベース弾きの彼女の吐息のコーラスはそれ以上に理性を失わせるものだった。

 

MCを一切挟むことなくライブは進行する。曲のブレイクするキメではギタリストとドラマーが必ずベースの彼女を見て指揮を仰いでいるのが分かる。彼女は悠然と構えて顎をしゃくって二人に視線で指示を出す。

 

彼女の一挙一足に背筋がゾクゾクと震える。自然とステージの最前列まで足を向けていた。

 

瞬く間に時間が歪んで過ぎ去る。静かな曲が終わって初めて楽器が響かない音の中で彼女が口を開いた。

 

「今日が初めてのライブです。キメラヘブンって言います。あたしが名前をつけたの」

 

一呼吸。

 

数少ない観客からは何も間の手が入らない。

 

「一応友達には今日が初めてのライブだからって声を掛けたんだけど、結局誰も来ないでやんの」

 

静寂。

 

「次が最後の曲なんだけど、それの前に何かやって欲しいことある?」
 

俺は堪らなくなって自分が何を言っているのかも分からずに叫んだ。

 

「殺してくれ!」

 

音の止んだ静かな狭いライブハウスの空間に俺の馬鹿みたいな声が吸い込まれていく。

 

少し間があって、虚空に消えたどうしようもない野次に彼女が答えた。


「ごめん、死ぬのは独りでやってくれる? たとえば、静かな森の中とかでさ。じゃあラスト、暇だったら終わりまで聴いてってね、『静かな森の中で』っていう曲」

 

最後の曲『静かな森の中で』を聞き終えて、頭が真っ白になったまま次のバンドの演奏を待たずにライブハウスを出た。

 

……俺は彼女に殺されたい。静かな森の中で!

 

俺の目の前に立った彼女がベースのネックを掴んでそのボディーを天高く担ぎ上げ、俺の頭上目がけて一直線に重たい楽器を思い切り振り下ろす様を想像する。

 

殺されたい。 

 

殺してくれ、殺してくれ、殺してくれ。
 
俺はキメラヘブンのライブに通う。キメラヘブンの集客はライブを重ねるごとに増えていく。一度でも彼女達のライブを観れば分かる、人気が出るのは当たり前だと思う。

 

彼女は決まって最後の曲を演奏する前に「何かやって欲しいことはある?」とつっけんどんなMCを挟む。コーラスで聞かせる柔らかい声とは同じ人物とは思えない凍てつくような声で。

 

俺は叫ぶ。


「殺してくれ!」

 

その度に彼女は「またあんたか」と言って、集まった観客と一緒に失笑で俺を攫った。

 

殺されたい。

 

俺は。

 

彼女に。

 

ベースで。

 

撲殺されたい。

 

頭蓋骨脳天ガチかち割られ髄液垂れ流したい。

 

「死にたいのなら勝手に死んでくれる?」

 

まったくもって、彼女の言う通りだ。